まるさんの移住

今から二十年ほど前のお話しから、このものがたりは始まる。
実話である。

 


当時、橋本敬三医師(翁先生)86歳。
操体法の創始者として、翁先生が活動していた時代の温古堂での思い出である。

私は26才だった。

今でもそうたいしてかわらないのだが、知識も経験もないまま翁先生の代診として、格好だけは先生のような白衣を着て私は温古堂にいた。

この時代の温古堂の様子は、「温古堂ものがたり」に書いてあるので、必読のこと。
これは、私が書いたものではあるのだが、感覚的には温古堂に書かされたと言った方が正しいような気がするのだ。
だから、必読のことなどと平気で書けるのだ。


さて、温古堂は全国からいろいろな人が見学や研修におとずれ、毎日にぎやかだった。
そんな中に、まるさんがいたし、プルさんも、ハゼアタマさん(旧姓ハゲアタマさん)もいた。

特にまるさんは、京都から仙台の花壇という所に家を借りて一年ほど温古堂に通った、とんでもないやじうまだった。
嫁さんと確か2歳位の長男弾君をつれて移住してきたのだ。

ここに、突然まるさん登場。

    「仙台に移り住んだ当時、弾は生後6ヶ月」

コーンの勘違いであった。

どうしてそこまで操体に興味を持ったのか、真相はわからないが、なんといっても翁先生の人柄と温古堂の雰囲気が気に入ったのだろう。

いろいろな新しい発想や気づきは、気の合う同志のなにげない会話によって、ひとりでに生まれることがわかった。

まるさんと話していると、よくおもしろいアイデアがポッと浮かんだりした。

ふたたび、まるさん登場。

     「お互いのアイデアをわいわい言いながら実験していくうちに
      また、新しいアイデアが湧いてくる・・・というそんな日々」。(^^)



また、まるさんはらくがきノートによくマンガを書いてくれた。
特に動物の絵や翁先生の似顔絵は上手だった。

そのノートは今も大切に保管してある。
機会があったらお見せしよう。
(プルさんのおかげで「温古堂ノート」となって誕生)

コンパという月刊誌に二人で連載した。

    「食養系の季刊誌でしたよね。たしか」。

私が文の係りで、まるさんがそれにマンガをつけてくれた。
どちらがつけたかわすれたが確か最初の題名が「なんとなくまめとまんじゅう」であった。

     「これは今さんの命名」。

当時から名前をつけるのが上手だったようだ?。

つづく   

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