第3回東京操体フォーラム 三浦先生篇  レポート:やじうまたち


(那夢さんの報告)

三浦先生から受け取った内容は・・・

1 症状や疾患に合わせた操体法は無い。
ボディの歪みから その個人に合わせた各症状が出るのでその症状に目を取られ過ぎてはいけない。
あくまでも「ボディの歪み」を診断・治療するのが操体である。

2 「快適」と「楽」は別物である。
「楽」は動診時、身体を動かす時の 抵抗感の無さ や 可動域の広さ がある時にあらわれる 感想。「快適」とは、例え痛くても「痛気持ち良い」感じなど「もっと味わっていたい気持良さ」を伴う感覚。

3 「ニセの快適」に注意せよ!
「ニセの快適」「うその快適」とは「楽」を「快適」と勘違いしてしまう患者も多いので、「言葉」だけを信じるのは危険。
その見分け方は・・・「じっくり味わいたい気持良さ」の有無。
気持よさが無い「快適」は「楽」と思った方が良さそうです。

4 治す事に関与してはいけない! 患者の身体を治すのは、患者の身体にまかせましよう。
身体の歪みが治れば 歪みの結果生み出された症状も消える。
身体の歪みは 気持よければ治るので 操者が考えるのは「気持よく 身体を動かす事」だけで良い。

5 人を治す快感に溺れるな患者の症状が自分の操体法で治ると 嬉しいですよね。
でも「患者を治す快感」を追い掛けだすと症状を消す為の操体法 イコール 手技・テクニック重視となり身体の声が聞こえ無くなり、やり過ぎたり、治らなかったり「じっくり味わいたい気持良さのある操法」から離れてしまう。 

6 連動(自動運動含む?)時のポイント連動は「在って当たり前」の事である。
連動・自動運動が起きたら、身体が自分を治しているのだから内心びっくりしていても、平気な表情で患者を安心させ心ゆくまで連動・自動運動を味わってもらう。

7 連動は重心移動を見る

8 気持よさを聞き分ける動診は 感覚を聞き分ける為に 動きをあやつる操法は 快適感覚へと感覚を導く。同じ動きでも、動診と操法では 同じでは無い
(その理由はあまり覚えて無いです(^^;;;)

気持よさの聞き分ける為の方法は8つある。 
どっちが楽か? の二極対比と 
1つ1つの動きの快適感覚を感じる 一極微(イチゴクミ)

他には・・・これからの操体法のテーマ?

1 連動学は、これから体系作り。

2
 皮膚は脳 皮膚独特の感覚を 操体に取り入れなければ 勿体無い
今までの操法では難しかった 
急性の炎症・動かせない・感覚が無い 等の患者でも、皮膚の感覚があるのだから、皮膚操体が使える。 
心身症にも 皮膚操体は効果があがっている。

3 胸郭部分も動かせなかった為に、重要視されていなかったが大事。

私は、操体法の勉強はほとんどしていません。ハッキリ言って、この掲示板を読む位です。
なので、基本的な言葉を聞き違えたり、勘違いをしていることも多いと思いますので、訂正をよろしくお願いします。(^-^)ノ"  

うわーっ。大事な文章が抜けていました!!

三浦先生の感想に追加です。

自分の感性を信じよう。
感性は、人それぞれ。
自分の心と身体がうける快適感覚が、最高の分析科学装置。
頭で考えずに、まず、やってみよう!

・・・です。

 

(プルさんの報告)

フォーラム全体を通しての三浦先生の主張は。
”操体は「楽のききわけ」からはじまった”という事実を踏まえつつ、「快適感覚のききわけ」を大切にしていかなくてはならない。
みたいな事なんだと思いました。

ひとりひとりの講演者の講演中であっても、この「快適感覚のききわけ」が無視されたような内容に関しては、マイクを手に横から割って入り、疑問、意見を述べるという容赦のなさ。
この辺が、フォーラムの方向性をひとつに絞り上げて、とても良かったように思います。

あんど。
ぼくも含めて多くの人が”くぎづけ”になったのもこの辺だったりして。(^^)

あと、ぼくの印象に残った、三浦先生の言葉をいくつか補足。

・気持ちよさは治癒能力なんだということ。

・「楽」を取るか、「快適感覚」を取るか、それが

    天国か地獄か!
    のるかそるか!

・ぶっちゃけた話。 
体系付けられて来たけど。 
操体は確立されてないよ。 
操体? 
名称はどうでもいい、真理が大切。

・(これは、どういう文脈で話された言葉かは忘れたけど。このフレーズだけ強く残ってました)

   民族意識、集合意識、宇宙意識の快適感覚なんです。

 

(soutai虫さんの報告)

 三浦せんせは進行も努められ、話されましたので、かいつまんで紹介いたします。

 東京操体フォーラムも3回目をむかえ、北から紹介いたしますと宮城・福島・長野・富山・和歌山・京都・岡山・広島・山口島根・大分・長崎・鹿児島から 100数十名の参加を頂いております。

 最近は操体に対して感心が大きく、操体フォーラム東京大会では 1000名、昨年の大会では800名規模の集会となっています。

 今回のフォーラムにおいても、交流の場としていただければ幸いです。
また、今年は橋本先生の13回忌でもあり、橋本哲学や思想といったものを背景に信頼関係がさらに深くなることを期待いたします。

 前回の大会でアンケートをとった結果、次のような質問がありましたので答えたいと思います。

・快適感覚が先生によって表現が違いあいまいではないか? 
数十年操体を行っている先生達であり、方向性は同じです。 
先生がたの生き方がそれぞれ異なるように各自 操法は異なって 当たり前であり、それを統一するつもりはありません。  
操体法は、橋本先生が正体術をもとにしているため、楽な動きを取り 入れているが、それが今でも色濃く残っておりたいていの人が快適感覚に 変わっていることに まだ 気づいていない。

・快適感覚の科学的データはないのか?  
快適感覚は自分自身の感覚なのです。
個人個人の感覚であり 橋本先生もうそかほんとかやってみろ!と言っています。 

・症状・疾患別操法を教えて欲しい?  
フォーラムの場は講習会の場ではないので、しかるべき講習の場に 参加され習得してください。
また、操体では〇〇病を治すという 発想はありません。
気持ち良さを通すことで治るので、快適感覚を 是非身に着けていただきたい。

 ニセの快適感覚と本物の快適感覚があることも付け加えます。 
ニセの快適感覚《楽な動き(気持ち良さが無い)》本物の快適感覚は 体、体の細胞、命が要求するものです。

  また、臨床家の多くの方は治したい技に走りがちであるが快適感覚 を通すことで治癒力を引き出すので、操者は患者さんに快適感覚を養って もらい味わえる体をつくればよいので、治ることは体にオマカセしなさい。 ともいっております。
私も数十年やってきて最近分かるようになりました。

  操体法での症状疾患対応をいうならば、病気等があればBODYがゆがむ そのユガミを正常に戻してあげれば治るということです。
ゆがんだ体で いると、病名が着くということです。(書きすぎ?)

 橋本先生の置き土産
今まで言ってきたことが、すなわち橋本先生の置き土産なのです。

操体の美味しいところだけを取っていく人がいる。
操体は体系づけられたが確立はされていない楽な方へ行く人が多い翁先生は「快感覚」の方へと言う話をされている。

 37年前 操体という言葉もなかった
「名称なんかどうでもいい 真理が大切なんだ」
操体は臨床にも使えるが 生き方でもある。
不快を望む者はない みな快を望む。
自然の理を教えている。
生かされている救いの生命観 救われている。
ありがたく存在していてくれる。

 1982年が橋本先生にとっても私にとっても大きな転機となりました。
(大きな声で)そうだな!コン君!
というのも、コン実行委員が温故堂に入ったときに、橋本先生は臨床を止め、橋本先生の代役として入ったコン先生に、“患者さんには気持ち良さしかおしえるな! 気持ち良さで治るんだからな!!”
そのとき私は、今までナニヲしてきたんだろうと思いました。 
動診で比較対照し楽な方を探し、操法を行う。皆さんの中にもそういった考えがあると思う。感覚の鈍い患者さんに対してはこれを行いますが

     一極微 (道教参照)であるように心がけなさい。

動診中に気持ちいいというのであればすぐに操法に入ってしまいなさい。
体は、快適感覚を味わいたがっているはずです。
動診で比較対照し楽な方を探していると、2度と同じ動きでは動けないし、感覚も変わります。 
また、比較対照できないものとしては 真横に横たわった時があります。
このような場合には、いろいろ動かして、気持ち良さがあればそれで決めるようにしてください。

 体は、75%が水であります。
この水が快適感覚を欲しています。
水は敏感に思念に反応します。

例として みずの入ったビン3本を用意し、ラベルを貼ります。
一つはありがとう や おいしいという快の言葉を書きます。
もう一つはバカヤローなど不快な言葉を書きます。
最後のビンのラベルには、何も書きません(無視した状態)

このようにして同じところに置き、水がどのように変化するかというと一番先に悪くなるのが、何も書かなかった(無視)ものその次が不快の言葉を書いたもの、最後に残るのが快の言葉を書いた水が残ります。

 体を大切にするなら、快適感覚を追ってください。

とこんなところでしょうか

 

(ラビさんの報告)

舞台の真ん中に仁王立ちし渋い濃い鼠色の着物に 黒っぽい緑の袴をはいた  剣豪 三浦寛は去年のフォーラムに寄せられた質問を読み始める

問い:「症状・疾患ごとの操体を教えろ」

答え:  「そんな物はなぃーい!!」

     バサリ!!!

問い:「各先生の操体が異なり 一貫性がみられない」

答え: 「方向性は同じだ!!」

「 先生がたの生き方がそれぞれ異なるように
              各自 操法は異なって当たり前だぁ!!」

            バサリ!!!

その返り血を 近くにいたはりぃさんは まともに受けて 一瞬息が止まって  失神。

うしろでみていた 那夢さんと僕は 痛快さに 大笑い。

「まだ こんなくだらんことを聴く奴はいるか?!」

「一晩中 相手してやるぞ!!」

そして 刀と同じように 鋭く目を光らせて

   「 諸君 眼と心を 耕せ!!!」

    と 言い放ち 舞台上手へ去っていった。

 

(はりぃさんの報告)

嵐の予感

それは三浦先生がマイクを持って壇上に現れた時に始まった
「少し早いが 今から息を整えて瞑想をするところから始めたい」
つかの間の静寂が会場を包む

「ハイ目を開けて」
「これからフォーラムを始めるわけだが 前回いろんな質問を頂いた
それを読み上げてみたい」

心身症の治療について顔面けいれんの治療について何回で治るのか疾患別治療について先生によって快感覚のとらえ方が曖昧である

読み上げるごとに 稲妻は輝きを増し 不穏な空気が流れ始める

操体は「正体術」を元にしている
「正体術」では「楽な動き」を基本とし最大可動域でたわめるものである
翁先生は「快適感覚へとシフトしている」
「楽」ではない 「快適」なのだ

操体は技術で治るのではない 「キモチヨサ」で治るのだ
「快感覚」を科学的に意味づけして欲しいという意見もあったが快感覚は自分に対して問いかけるものである
自分の体と心が一番いい科学だ
翁先生も言っている イイか悪いかやってみろ
命そのものの意思感覚である

それではニセの快感覚とは何か
「楽」な動きである
キモチヨサがあるものがイイ感覚
キモチヨサのないただ楽な感覚はニセモノである

体の要求感覚は楽な方ではない 
キモチイイ方を選ぶ患者が大切なのではない 
体が大切なのである
体に聞いてください
本人の意思ではなく 本人のからだがどうか

治しの技術というのは操体的ではない
翁先生は言っている
「治すことにまで関与するな」
「治すことは体に任せなさい」
翁先生は技術に走ることを怖れていた
キモチヨサそのものが治癒力である
操者は快感覚の最高のものを味わえるよう指導しなさい

ボディーに対する診断と治療学を操体法は持っている
全ての疾患の始めに 必ずそれがあり 最後まで残る人は四百四病を持って産まれて来るという仏教の教えがあるがそれを一つ一つ治療していたら一生かかっても治療できない
ボディーのゆがみをとれば 一つ一つやらなくてもマに合う

動診は動きを操るもの
操法は感覚を操るもの
感覚を聞き分けるための動診であり操法は感覚の異常を直すためのものである

嵐は始まったばかりだった

<橋本先生の置き土産>

操体の美味しいところだけ取っていく人がいる
その戒めとして私は翁先生の「からだの設計にミスはない」の77ページをいつも肌身に着けている
葛藤する時には気持ちがスーッとする
操体は宗派に別れて欲しくないと翁先生は言っていた

操体は体系づけられたが確立はされていない
「楽」な方に行く人が多い
翁先生は「快感覚」の方に行きなさいと言う話をされている

37年前 操体という名称もなかった
「名称はどうでもいい 真理が大切なんだ」

操体は臨床にも使えるが 生き方でもある不快を望む者はない 
みな快を望む自然の理を教えている 
生かされている救いの生命感 
救われているありがたく存在してくれている

操体の臨床は動かしてみることに留めなさい治すことまで関与するな

治療してしまうことは聖書の失楽園の中で禁断の果実を食べてしまったことに似ている
治療するなと言われたのにしてしまったときは妙な快感がある

体に聞き分ける以外にない
キモチイイというのも体が要求しているのか?
味わってみたいものと味わいたくないものがある

翁先生は「一生楽しめるよ」と言っていた

操体をテクニック、技術に向けないで命、生き方の方向に向けて欲しい

1982年の事件
翁先生は85歳で臨床を辞めた
温古堂の代診として今先生を紹介した

そのときに翁先生の落とし玉があった

「コン君 患者にはキモチヨサ以外には教えるな」

そして三浦先生自身にも翁先生は言った
「キモチヨサを聞き分けさせればいいんだ キモチヨサで治るんだからな」
呆然とした
それまで楽な方がいいと考えていたのがぶっ飛ばされた
自分はそれから快適な方法ができるかどうか考えてきた

そうしてコンせんせと書いたのが「操体法治療室」翁先生90歳の記念だった

操体法には8つの快分析がある

一つめは動きの比較運動分析
これは本当に快感覚につながるのか?
快感覚がわからない人に運動分析が必要

一つ一つの動きにキモチヨサを探っていく方がいい
それを「一極微(いちごくみ)」と表現した 道元の言葉である
今までの「二極対比」に対し一つの動きを味わう

今までは動診中のキモチヨサを味わえず操法までお預けだった
せっかく動診で気持ちよさが出たのにわざわざ反対を試す
冷めたご飯と炊きたてのご飯ではどっちが美味しいか
動診した感覚と操法の時の感覚は違うものである

体の成分の75%は水分である
キモチヨサを波動として受け取っている水は波動でキモチヨサを求めている
水は思念に反応する
愛と感謝が一番きれいな結晶を結ぶ

H2O は感謝二つと愛一つの意味である

ラベルに「ありがとう」「ばかやろう」と書いたものそして何も貼らない水の瓶があった時に無視された水が一番早く濁る

体の水は(命が)快と不快に反応する
反応しないのはただ「楽」な状態である

嵐が通り過ぎ 何もかも吹き流された風景にただ呆然とするばかりであった


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